言の葉ブログ

思考と内省のための、表現でなく表出のためのブログです。

他者の内在化

他者を内在化することから、なかなか逃れられないのはなんでなんやろう。

【逃れられない】と言うことは、逃れたいのだ、多分。

 

その他者は、勝手に内在化している時点でしょせん他者ではないのだけれども、

自己でもない。

だって、【私】は、そんなこと別にしたくないもの。考えてないもの。感じてないもの。

しょせん、何者でもないはずで、

だけど少なくとも意識の上か無意識の内には存在していて、

何者かではあるはずなのでしょう。

何者なのでしょう。

 

ぜーんぶ、やーめたって言って、やめたくなることがある。

所属や名前や性別や国籍や年齢や

行為や過去や経験や未来や、ひょっとしたら思考や認識さえも。

こんなものは、【ない】となればなくなりうるものでしかなくて。

「それぞれの、その程度」のものなのに、ときにとても重たい。

私にとっては、「有り難い」や「アイデンティティ」や「拠り所」なんかではなく、

ただただ、所詮たったその程度のものでしかないのに、

ときに重たく、とても邪魔に感じる。

「その程度」を超えてきやがる。所詮それ以上でも以下でもないはずなのに。

自分にとっても代替可能なもので

逆に、そちらの側からも私じゃなくても代替可能なもので

それ以上でもそれ以下でもなく。

感覚や存在や魂とは、レベルというか、ステージというか世界というかが違う。

これらに規定されて、というより勝手に自分で自己をあわせて、

生きることの苦しさは、とてもしんどい。

そう、しんどい。逃れたい。

逃れた先に何が残るのか、何者かがあるのか、しらんけど。

 

やーめたって言って、あがりたくなる感覚の端っこをつかまえる。

つかまえた感覚は、認識を変えたり、誤魔化したりしても、きっと一層奥深くに潜るのみで、意味はない。

その感覚に連なるものを認識するのは、知覚なのか。思考や言語なのか。きっと違う。

つかまえて認識化に引きずり存在させるためには、その道具が必要だけど、

潜り込むのは、自己自身でしかない。

多分それは、感覚や存在や魂といった、

それら自身さえも捉えづらいものたちのお仕事なのだと思う。

だから、それらを自由に、というかそのままに、存在させてくれないから、逃れたいのか。しら?