表現と表出
表現。表出。
他者を意識するかどうか。
出す、のか。現す、のか。
わたし、表出のほうが、好き。
ということに気づいたのは大学生のとき。
教育大学で教科教育法なんかを学んでいると、芸術系の先生って、
とても好きな先生と、大っきらいやわ授業出るだけで吐きそうやわって先生がいて、
その違いってなんやろなぁって考え込んでいて。
その頃に表現、表出って言葉(概念?)を知った。
知ったのは、表現派の先生が、
「表出じゃあかん、自己満じゃあかん、他者を意識しない表現はただの表出や、表現に非ず」
というようなことを言っていて。
すごくスッキリしたんですよね。
ああ、だから私、あなたたち嫌いやねんな、と。
私は、エゴがたっぷりのものが好き。
どう見えるか、どう伝わるか、そんなものは、
自分の中の奥の奥の奥のさらにその先を掴もうとしているときに、私はジャマ。
(「そんなもの」って、表現派のこだわりをもっている人、すみません)
そして、私は、あなたの、そんな奥の奥の奥の更にその先にであえたとき、触れられたとき、触れられたような気になるとき、
そんなときに、なんとも言えず、絶句し、自分と他者がいることを、いや、あることを、
なんだか感じることができる。
そんなときが、とても幸せ。と、私は感じる。
私は、エゴが、すき。
だから、そんな作品が、すき。
生々しいエゴが、すき。
それが毒々しくても、美しくても。
キレイにされて現されたエゴは、別にあなたのものじゃなくてもいいでしょ、って思っちゃう。
そんな感覚やねんな、きっと。
表現を求められると、
別に私のものじゃなくてもいいでしょ、って思っちゃう。
表現を求めることを求められると、
そんなこと絶対したくないわ、って思っちゃう。
私自身がどうしようもないエゴのかたまりなんやろうな、きっと。
一方で、私、とか、あなた、とか、彼、とかを
超えた先の存在にもたまらなく惹かれたりするんですけどね。
そういったものが、表現の先に、もしかして、ひょっとすると、あるのかもしれない、と思ったりもする。
だけど、表すということは、この世に存在させるということは、
媒体である私やあなたや彼なしにはあり得ないのでは、とも思ったりもする。
どうなんだろうね。なんなんだろうね。