言の葉ブログ

思考と内省のための、表現でなく表出のためのブログです。

『エミール(上)』第一編/ルソー著・岩波文庫

『万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる』(27P)

という一文から始まる本作。

 

第一編では、当時のヨーロッパでの教育・育児や医療の在り方に対して、ルソーは問題提起をしている。

そして、本作では一人の教師が「エミール」という架空の少年を結婚するまで育てる姿を書きまとめ、ルソーが求める教育の在り方を示そうとしている。

第一編では、主に生まれたばかりの子どもへの教育、かかわり方のありようが示されている。

 

 

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ルソーによると、人間への教育は3つのものによってあたえられる。

その3つは、「自然」「人間」「事物」かであり、それらが相反すると人間の育ちに悪い影響をあたえるという。

そして、この3つのうち「自然の教育」は私たちの力でどうすることもできないので、そこに合わせようと主張する。

 

『生まれたときわたしたちがもってなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる。この教育は、自然か人間か事物かによってあたえられる。』(29p)

『わたしたちはみな、三種類の先生によって教育される。これらの先生のそれぞれの教えが互いに矛盾している場合には弟子は悪い教育をうける。』(29p)

『この三とおりの教育のなかで、自然の教育はわたしたちの力ではどうすることもできない。』(29p)

『わたしたちの力でどうすることもできないものに他の二つを一致させなければならない。』(30p)

 

 

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そして、「市民」や「社会人」という言葉と対比させながら「人間」をつくる教育についてまとめ、3つの教育が矛盾しない重要性を述べる。

 

『…それらの教育(人間、自然、事物)が対立しているばあいには、人間をその人のために育てないで、ほかの人間のために育てようとする場合にはどうなるか。…自然か社会制度と戦わなければならなくなり、人間をつくるか、市民をつくるか、どちらかにきめなければならない。』(32p)

『自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり、絶対的な整数であって、自分に対して、あるいは自分と同等のものにたいして関係をもつだけである。社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。その価値は社会という全体との関連において決まる。…個人のひとりひとりは自分を一個の人間とは考えず、その統一体の一部と考え、なにごとも全体においてしか考えない。』(33p)

『社会状態にあって自然の感情の優越性をもちつづけようとする人は、なにを望んでいいかわからない。…人間にも市民にもなれない。自分にとってもほかの人にとっても役にたつ人間になれない。それが現代の人間…だ。』(34p)

 

 

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さらにルソーは、社会秩序のもとの教育と、自然の秩序のもとの教育を比較する。

 

『社会秩序のもとでは、すべての地位ははっきりと決められ、…その地位にむくようにつくられた個人は、その地位を離れるともうなんの役にもたたない人間になる。教育はその人の運命が両親の地位と一致しているかぎりにおいてのみ有効なものとなる。』(37p)

『自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。…両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間としての生活をするように自然は命じている。生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。わたしの手を離れるとき、かれは、たしかに、役人でも軍人でも僧侶でもないだろう。かれはなによりもまず人間だろう。』(38p)

『わたしたちがほんとうに研究しなければならないのは人間の条件の研究である。』(38p)

 

 

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そして、いくつかの場面、いくつかのテーマについて、ルソーは問題と感じる教育、自身の求める教育について書いていく。

 

 

【生命と自然、医療について】

 『人は子どもの身を守ることばかり考えているが、それでは十分ではない。…死をふせぐことよりも、生きさせることが必要なのだ。生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。』(40p)

『自然はたえず子どもに試練を与える。あらゆる試練によって子どもの体質をきたえる。…自然を矯正するつもりで自然の仕事をぶち壊しているのがわからないのか。…限度を超えさえしなければ、力を使わせた方が…危険が少ない。だから、いずれ耐えなければならない攻撃になれさせるがいい。不順な季節、風土、環境、飢え、渇き、疲労にたいして、彼らの体を鍛錬させるがいい。冥府の川(ステュクス)の水に漬けるがいい。』(52-53p)

『自然のままの人間はいつも苦しみに耐え、やすらかに死んでいく。処方をあたえる医者、教訓をあたえる哲学者、説教をする僧侶、そういう者が人間の心を卑屈にし、死をあきらめることができない人間にするのだ。』(73p)

『病気をなおすことは知らなくても、子どもには、病気に耐えることを知ってもらいたい。…これは自然の技術だ。』(74p) 

 

 

 

【身体の自由、動きについて】

『母たちは…自分の子を養育することを好まなくなってから、子どもは金で雇った女に預けなければならなくなった。』(43p)

そのため、乳母は育児に手のかからないよう子どもの動きを拘束しているという。

 

『子どもが母の胎内を出るとすぐに、…新たな束縛を与える。産衣にくるみ、頭を固定し、足をのばさせ、腕を体のわきにたれさせて、寝かせておく。あらゆる種類のきれやひもを体にまきつけ、そのため体の向きをかえることができなくなる。』(41p)

『大きくなろうとしている体の内部の力は、もとめている運動に対して、うちかちがたい障害をみいだす。子どもは絶えずむなしい努力をして、力をつかいはし、そのため発育がおくれることになる。』(42p)

『頭巾もバンドも産衣もいらない。衣服は、手足を自由に動かせるようにゆったりしたもので、子どもの運動を妨げるほど重くても、空気の影響を感じるのを妨げるほど厚くてもいけない。大きなゆりかごに入れ、そのなかで危険なしに勝手に動けるようにするがいい。力がついてきたら、部屋の中をはい回らせるがいい。小さな手足を自由にのばさせ、ひろげさせるがいい。』(86p)

『子どもはすべてのものにふれ、すべてのものを手にとろうとする。そういう落ち着きのなさに逆らってはならない。それはこどもにとってきわめて必要な学習法を暗示している。』(95p)

 

 

【命令する/される、支配と服従、支配欲】

『わたしたちは子どもの気に入るようなことをするか、わたしたちの気に入るようなことを子どもにもとめるかする。…中間の道はない。…子どもが最初にいだく観念は支配と服従の観念である。』(55p)

『子どもの最初のなき声は願いである。気をつけていないと、それはやがて命令になる。はじめは助けてもらっているが、しまいには自分に仕えさせることになる。』(101p)

 『子どもは、…彼女たちの気まぐれと自分の気まぐれの犠牲になって、6,7年をすごす。人為的に生じた情念によって天性が押し殺されたのちに、この人工的なものは教師の手に預けられ、教師は…人工的な芽を完全に伸ばすことになり、あらゆることを教えるが、自分を知ること、自分自身から利益をひきだすこと、生きて幸福になることだけは教えない。』(55-56p)

 

『悪はすべて弱さから生まれる。…なんでもできるものはけっして悪いことをしない。』

『理性の時期がくるまでは、わたしたちは善悪を知らずに善いことをしたり悪いことをしたりする。だから、わたしたちの行動には道徳性はない。』

『自然をつくったものは、子どもに…活動源をあたえると同時に、…有害なものとならないよう注意を払い、子どもにあまり大きな力をあたえないで活動させている。しかし、子どもは自分の周りにいる人を心のままに動かすことができる道具のように考えるようになると、こういう道具を好きなように用いて自分の無力を補う。…この進化は生まれながらの支配欲によるものではなく、この進化が子どもに支配欲をあたえるのだ。』(105)

 

 

【言語について】

『細かい間違いをすべて、いちいちしつこく子どもになおしてやろうとするのは、…よけいなお世話でもある。…子どもが必ず自分でなおすようになる。』(114p)

『もっと重大な誤りは…やっきになって子どもに何か話させようとすることだ。こういう考えのないせっかちなやり方は、もとめていることとまったく逆の結果をもたらす。』(114p)

『はやくから話をさせられる子どもは、はっきりと発音することを学ぶひまも、人々がしゃべらせることを十分に理解する暇もない。…あたがたのことばをはやくからつかうようにせかされなければ、子どもはまず、その言葉にどんな意味が与えられているかをよく観察する。』(120p)

『都会の子どもは…付き添いの女に見守られながら育てられるので、自分のいうことを分かってもらうためには口をもぐもぐさせるだけでたりるからだ。』(116p)

『田舎では事情は全く違う。…子どもは母親に分かってもらう必要のあることを、はっきりと大きな声でいう事を学ばなければならない。…こうしてこそ、ほんとうに発音を学べるのであって、注意深く聞いている付き添いの女の耳元でいくつかの母音をどもりながら言うのでは発音は学べない。』(116p)

『子どもが何かわけのわからないことを言い始めたら、かれの言うことを分かろうとしてやたらに気をもむことはない。いつでも人にわかってもらおうとするのは、これもまた一種の権力である。』(120p)

 

 

【教師の仕事】

『子どもに教える学問は一つしかない。それは人間の義務を教えることだ。』(64p)

『生まれたとき、子どもはすでに弟子なのだ。教師の弟子ではない。自然の弟子だ。教師はただ、自然という首席の先生のもとで研究し、この先生の仕事がじゃまされないようにするだけだ。教師は乳児を見守り、観察し、そのあとについて行き、子どもの悟性がおぼろげにあらわれはじめる時を注意深く見はっている…。』(87p)

『人間の教育は誕生とともに始まる。話をするまえに、人の言うことを聞きわけるまえに、人間はすでに学び始めている。経験は授業に先立つ。』(90p)

 

 

上記のテーマ以外にも、以下のことについても作中では触れている。

・空気の悪い都市ではなく、田舎で育てよう

・温かい湯でなく、少しずつ段階的に温度をさげていき、しまいには夏でも冬でも冷たい水で洗うがいい

・歯が生え始める前、象牙やおしゃぶりをあたえるのでなく、果物を乾燥したものなどかませるようにしたい

 

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そして、原則を知ることでどこで自然の道から外れたかを知り、自然の道にとどまるためにどうすべきかについてまとめている。

ここが、第1篇の要所かと思う。

 

『自然によってあたえられたすべての力、子どもが濫用することのできない力を、十分にもちいさせなければならない。第一の格率。』(106p)

『肉体的な必要に属するあらゆることで、子どもを助け、知性においても力においても子どもに欠けているものをおぎなってやらなければならい。第二の格率。』(106p)

『子どもを助けてやる場合には、じっさいに必要なことだけにかぎって、気まぐれや、理由のない欲望に対してはなにもあたえないようにすること。…第三の格率。』(106p)

『子どものことばと身ぶりを注意深く研究して、…直接に自然から生ずるものと臆見から生じるものとを見分けなければならない。第四の格率。』(106-107p)

『これらの規則の精神は、子どもにほんとうの自由をあたえ、支配力をあたえず、できるだけものごとを自分でさせ、他人になにかもとめないようにさせることにある。こうすれば早くから欲望を自分の力の限度にとどめることにならされ、自分の力では得られないものの欠乏を感じなくてもすむようになる。』(107p)