言の葉ブログ

思考と内省のための、表現でなく表出のためのブログです。

『パイドン』プラトン著 ①

最近読んでいる『パイドン 魂の不死について』、久しぶりのプラトンです。

 岩波文庫岩田靖夫さん訳のものです。

 

 

 

本書は、「イデア論」で有名なプラトンの、中期の名作と言われています。

プラトンの師であるソクラテスの最期のときという設定で書かれ、

その場に居合わせたパイドン(人名)が、エケクラテス(人名)に伝えた対話の形式によって書かれています。

 

本文からの引用は『』で書き、その後にページ数を記載します。

『』外の文章は私の書いたものです。

…は文章の省略をあらわします。

 

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〔一 序曲〕

物語は、エケクラテスとパイドンの会話から始まります。

ソクラテスの最期に居合わせず、ただソクラテスが毒をあおいで亡くなったということだけ知らされたエケクラテスが、パイドンにその場に居合わせたのかとたずねます。

そして、その場にいたパイドンに、ソクラテスが死の前に語ったこと、その様子を事細かに教えてほしいと頼みます。

パイドンは、ソクラテスを想い出すことは最高の喜びだとして、このことを引き受けます。

 

 

〔二 死に対するソクラテスの態度〕

ここからは場面をうつし、死の直前のソクラテスとその弟子たちによる対話が続きます。

 

『「…人間にとって生きることよりも死ぬことの方がより善いということだけが、他のすべてのこととは違って、例外なしに無条件であり、他のものごとの場合のように、ある時ある人には、という条件がけっして付かない。…死ぬことの方がより善い人間たちにとって、自分自身にその善いことをなすのは不敬な行為であり、善をなしてくれる他者を待たねばならない」』(23)

『「…この説には、おそらく、ある根拠があるのだ。…それによると、われわれ人間はある牢獄の中にいて、そこから自分自身を解放して、逃げ出してはならないのである。これが僕には…容易にはその真意を見抜けない思想のように思われる。それにもかかわらず、少なくともこのことは僕には正しく語られていると思われる。すなわち、神々はわれわれ人間を配慮する者であり、われわれ人間は神々の所有物の一つである、と。」』(24) 

『「…君の所有物の一つが、君がそれの死を望むという意思表示もしていないのに、自分自身を殺すとすれば、それに対して腹を立て、…処罰するだろう。」』(24)

『「現にわれわれの眼前にあるような何らかの必然を神が送りたもうまでは、自分自身を殺してはいけない、ということは、根拠のないことではない。」』(24)

 

ソクラテスが死をどう考えているか、という言葉と弟子への問いかけが続きます。

誰にとっても死ぬことは生きることよりも善だとソクラテスは言います。

そして、自分で死んではいけない、他者を待たねばならないと続けます。

その根拠としては、われわれは神の所有物である、という説をソクラテスは支持しています。

そして、彼の弟子であるケベスは疑問を投げかけます。

「哲学者は喜んで死のうとする」という点は、理屈に合わないように思うと。

 

『ケベス(弟子)「…神はわれわれを配慮する方であり、われわれは神の所有物である、という説が充分根拠をもっているとすれば…、もっとも思慮のある者(哲学者)たちが、存在するもののうちで最善の監督者である神がかれらを監督してくれている、その配慮のうちから立ち去るというのに憤慨しないというのは理屈に合わないからです。…無思慮な人ならば、…主人からは逃亡すべきであると考えるかもしれません。…善い主人からは逃亡すべきではなく、できるだけ彼のもとに留まるべきである、とは考えないでしょう。…しかし、思慮分別のある人は自分自身より優れた方のもとにいつもいようと望むでしょう。…すなわち、思慮のある者たちの方が死に際して憤慨し、無思慮な者たちの方が歓喜する、というのがふさわしいのです。」』(25)

『シミアス(弟子)「…いったい何を望んで、本当に知恵のある人々が自分自身よりも優れた主人たちから逃げ出して、平気でかれらから離れることができるのでしょうか。…あなたはこんなにも平然として、われわれのもとを立ち去り、また、善い支配者であるとあなた自身も認めている神々のもとを立ち去るのですから。」』(26)

 

 

こうして、ソクラテスは弟子たちにこの点をより詳しく弁明することを試みます。

 

『「…第一に、この世を支配する神々とは別の賢くて善い神々のもとにこれからいくだろうということ、第二に、この世の人々よりはより優れた死んだ人々のもとにもいくだろうということ…。僕は善い人々のもとへ行くだろう、という希望をもっているのだ。」』(26)

『「…本当に哲学のうちで人生を過ごしてきた人は、死に臨んで恐れを抱くことなく、死んだあとにはあの世で最大の全を得るだろうという希望に燃えているのだが、それは僕には当然のことのように思えるのだ。」』(28)

『「…死とは、魂の肉体からの分離に他ならないではないか。…魂が肉体から分離されてそれ自身単独に存在していること、これが死んでいる、ということではないか。」』(30)

 

ソクラテスは、死を魂と肉体の分離ととらえ、

哲学者は、飲食の快楽や性の快楽を熱心に追求し、豪華な衣装や靴の所有や装飾を尊重すると思うか、軽蔑するか弟子に尋ねます。

そして、軽蔑すると思うと弟子が答えると、『「それなら、一般に、このような人の仕事は肉体に関することではなくて、できるだけ肉体から離れ、魂の方へと向きを変えられることだ、と君には思えるかね」』(31)『「…哲学者は他の人々とは際立って異なり、できるだけ魂を肉体との交わりから解放する者であることは明らかだね」』(31)と続けます。

そして、知恵の獲得について対話を進めます。

 

『「…知恵の獲得そのことにかんしてはどうだ。肉体は邪魔なのか、そうではないのか。…見ることや聞くことは人々になんらかの真実を教えるのか。…われわれはなにも正確なことを見もしなければ聞きもしない。」』(31-32)

『「では、魂はいつ真理に触れるのか。なぜなら、肉体と協同してなにかを考察しようと試みれば、その時には、魂は肉体によってすっかり欺かれてしまうのは、明らかだからだ」』(32)

『「…存在するものの何かが魂に明らかになる場所がどこかにあるとすれば、それは思考においてではなかろうか」』(32)

『「…おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、苦痛も、なんらかの快楽も魂を悩ますことがなく、魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである」』(32)

 

肉体的な感覚(聴覚や視覚など)と魂をわけて考え、魂は肉体によって欺かれるという表現をしています。

存在が魂に明らかになる場所として、思考をあげます。

話は、正義や美、善についてすすみます。

正義そのもの、美そのもの、善そのものが存在するかと問い、弟子が存在するというと、今度はそれらのものを目で見たことがあるかと問います。

たとえば、大きさ、健康、力。すべてのものごとの本質、それぞれのものごとが正にそれであるところのものについて問います。

 

『「…これらのもののもっとも真実な姿が肉体を通して見られるであろうか。」』(33)

『「…もっとも純粋に成し遂げる人は、…思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、純粋な思惟それ自体のみを用いて、存在するもののそれぞれについて純粋なそのもの自体のみを追求しようと努力する人である。その人は、できるだけ目や耳やいわば全肉体から解放されている人である。」』

『「…肉体は、それを養うことが避けられないために、無数の厄介をわれわれに背負わせるのだ。…肉体は、また、愛欲、欲望、恐怖、あらゆる種類の妄想、数々のたわ言でわれわれを満たし、…肉体のために、何かを真実にまた本当に考えることがけっしてできないのである。…すべての戦争は財貨の獲得のためにおこるのだが、われわれが財貨を獲得せねばならないのは、肉体のため、奴隷となって肉体の世話をしなかればならないからである。…哲学をするゆとりを失うのである。…生きている間は知恵はわれわれのものにならないのである。もしも肉体と共にあればなにごとをも純粋に知ることができないとすれば、次の二つのうちのどちらかであるからだ。知を獲得することはいかにしても不可能であるか、それとも、可能であるとすれば死者にとってのみである。…生きている限りでは、…できるだけ肉体と交わらず共有もせず、肉体の本性に汚染されず…神ご自身がわれわれを解放する時を待つのである。…肉体の狂乱から離れ去って清浄な者となれば、当然のこととして、われわれは清浄な人々の仲間になるだろう。…清浄でない者が清浄なものに触れることは、神の許さないことであろうから」』(35-36)

『「もしもこれらのことが真実であれば、友よ、僕がこれから行くところへ到達した者には大きな希望があるのだ。…過ぎ去ったこれまでの人生において、そのために大きな勤勉さをもって追及してきたそのものを充分に獲得するという希望があるのである。…だれであれ自分の思惟はすっかり浄化されて準備ができていると思う者にとっては、事情は同様なのだ」』(37)

 

こうして、ソクラテスが自身の死を善いと捉えている理由が述べられました。

浄化(カタルシス)を、『魂を肉体からできるだけ切り離すこと』『魂を肉体のあらゆる部分から自分自身へと取り集め、凝集するように習慣づけること』『肉体から解放されて、魂ができるだけ自分自身だけで単独に生きるように習慣づけること』ではないかと続けます。

そして、『「正にこのことが、…魂の肉体からの解放と分離が、死と名付けられるのではないか」』(38)、魂の解放をつねに望んでいる哲学者の仕事は、魂を肉体から解放し分離することだと言います。

『「僕は、君たちやこの世の主人である神々を後に残して立ち去ってゆくのに、苦しみもせず嘆きもしない。それは、あの世でもこの世でと同じように、善い主人と友達に出会えるだろう、と信じているからなのだ。」』とソクラテスが、自らの死を善いことととらえている理由を語り終えると、弟子のケベスが問いを発します。

 

『ケベス(弟子)「…魂について語られたことは人々に多くの疑念を呼び起こすものです。かれらはこう恐れているのです。魂は肉体から分離されると、もはやどこにも存在しないのではないか。…息か煙のように外に出ていき、散り散りになって飛び去ってゆき、もはやどこにも存在しないのではないか、と。…人間が死んでも、魂は存在しなんらかの力と知恵を持ちつづける、ということを認めるには、おそらく、少なからぬ説得と証明が必要となるのです」』(44)

 

こうして、本書は次の章〔霊魂不滅の証明〕につづきます。

 

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とても読み応えのある44ぺージでした。

ソクラテスが死を善いととらえている理由について、改めて考えました。

 

肉体と魂の分離。知恵や美、善、〇〇そのものという本質をつかむのに、肉体は魂と協同するのではなく、むしろ邪魔になる存在としてとらえている。

そして、魂を肉体からできるだけ切り離し、魂そのものとして存在できるよう浄化させていくことで、清浄な魂は清浄な神々や人たちのもとへ行ける、という考え方。

哲学者を死んだように生きている人と表現していたのはこのことでしょうか。

こういった考えをもち、魂を浄化し準備ができているという人にとっては、たしかに最期のこのときは、他者が死を運んできてくれた、というのも頷けるものがあります。

 

神の存在が出てきたところ、

肉体やその本性を悪とし、魂を善としているところ(言い切っているところ)、

思慮深い人と思慮のない人をわけてとらえているところ(しかも思慮深い人でないとより善いあの世へ至れないかのような思想)

自分でも意外ですが、「んん?」と思想としてひっかかる部分が多々ありました。

 

さて、最後のケベスからの問い。

これにソクラテスはどのようにこたえていくのでしょうか。

3章も読み進めていきたいと思います。