“集団”と“文化”
久しぶりに、とても苦手な講師の人に会った。話を聞いた。一時間。
たった一時間、かもしれないが、尾を引く苦痛な一時間だった。
それで、思ったの。
私、学級経営に熱がある人、、、ってこういうカテゴライズして、どうこう言うのもどうかとは思うんだけども、
そういう人(ラベル貼ってすみません、なんて表現してよいか分からず)苦手なことが、たまにある。
話している相手の目を見れないほどに苦手なことが、ごく稀にある。
よい集団を、とか、
認めあえる集団を、とか、
高め合える集団を、とか、
苦手なんですよねぇ、結構、じつは。
同じように聞こえるかもしれないけど、
集団の中に認めあえる文化を、とか、
集団の中に高め合える文化を、とかになると、
平気やの。
平気、というか、文化の内容によっては積極的に思ったりもする。
なんやろなぁ、何が違うんやろなぁ、ということを、
必死につかまえてみる。今から。
えーーーと、多分。
まず、集団を育てようとか、こういう集団にしたいとか、その欲求が、
なんというか、言葉を選びたいんだけど選べなくて、
ごめんなさいですが、キモチワルイ。
っていう感覚をもってしまう。私は。
それは、こういう人間に育てたいという欲求同様に、とても教育的に感じられて、キモチワルイ。
もしかすると、それ以上に、したたか?に感じられて、キモチワルイ。
うん、じゃあなんであなた教育にたずさわってるの、あなたもそういう欲求あるんじゃないの、と私が私のこの文を見ている誰かだったら聞きたくなる。ツッコミたくなる。
だから、教育、するのもされるのも嫌いやねん。
それは一旦おいておいて。
そして、きっと、私は集団を個人の集合体としてしか見ていない。
何年何組って集団は、そこに集う人たちのただの集合だ。と思う。
もっと大きなところで言えば、例えば、女性、とか、日本人、とか、大人、とか。
それは、ある面で同じ特徴や属性を持った人のただの集まり。と思う。
そこにいる(と見られる、思っている)人全体のカラーをつけることに、一種の何とも言えない不自然さを感じる。のです。
(冒頭で私自身が、それをしておきながらなんですが、、、)
文化、となると、そのへんと、どのへんがどう違うのか、違う、と私は捉えているのか、、、
そのへんは、また次回。がんばってつかまえる。
ふーーー。
おやすみ。寝れるかな。寝たいな。
表現と表出
表現。表出。
他者を意識するかどうか。
出す、のか。現す、のか。
わたし、表出のほうが、好き。
ということに気づいたのは大学生のとき。
教育大学で教科教育法なんかを学んでいると、芸術系の先生って、
とても好きな先生と、大っきらいやわ授業出るだけで吐きそうやわって先生がいて、
その違いってなんやろなぁって考え込んでいて。
その頃に表現、表出って言葉(概念?)を知った。
知ったのは、表現派の先生が、
「表出じゃあかん、自己満じゃあかん、他者を意識しない表現はただの表出や、表現に非ず」
というようなことを言っていて。
すごくスッキリしたんですよね。
ああ、だから私、あなたたち嫌いやねんな、と。
私は、エゴがたっぷりのものが好き。
どう見えるか、どう伝わるか、そんなものは、
自分の中の奥の奥の奥のさらにその先を掴もうとしているときに、私はジャマ。
(「そんなもの」って、表現派のこだわりをもっている人、すみません)
そして、私は、あなたの、そんな奥の奥の奥の更にその先にであえたとき、触れられたとき、触れられたような気になるとき、
そんなときに、なんとも言えず、絶句し、自分と他者がいることを、いや、あることを、
なんだか感じることができる。
そんなときが、とても幸せ。と、私は感じる。
私は、エゴが、すき。
だから、そんな作品が、すき。
生々しいエゴが、すき。
それが毒々しくても、美しくても。
キレイにされて現されたエゴは、別にあなたのものじゃなくてもいいでしょ、って思っちゃう。
そんな感覚やねんな、きっと。
表現を求められると、
別に私のものじゃなくてもいいでしょ、って思っちゃう。
表現を求めることを求められると、
そんなこと絶対したくないわ、って思っちゃう。
私自身がどうしようもないエゴのかたまりなんやろうな、きっと。
一方で、私、とか、あなた、とか、彼、とかを
超えた先の存在にもたまらなく惹かれたりするんですけどね。
そういったものが、表現の先に、もしかして、ひょっとすると、あるのかもしれない、と思ったりもする。
だけど、表すということは、この世に存在させるということは、
媒体である私やあなたや彼なしにはあり得ないのでは、とも思ったりもする。
どうなんだろうね。なんなんだろうね。