言の葉ブログ

思考と内省のための、表現でなく表出のためのブログです。

耳をすませば

珍しくジブリな気分になり(人生初かも・・・)、最近マンガレンタルでお世話になっているゲオに行ってきた。

 

耳をすませば

 

おつまみたちと、もぎ〇て24時間レモン味を片手に、さっそくPCにIN.。。。

・・・おや?

なんか、再生できないんすけど。

なんなんすか、なんすか。

 

DVDプレイヤー買おうかなー。TVあるし。(10年ぶりくらいにTVのある生活)

この夏買い物しすぎな気が…。

ソファ、自転車、鳥さんセット、キッチンワゴン、、、

そんなストレスたまっているわけでもないのに、何で買ってまうんやろ。

ボーナス怖。ネットショッピング怖。

 

っていう、ただの日記。そんな気分。

2017.8.25

RADWIMPS

に、はまる最近。

よいですね、酔いました。

 ストロング、強い。強いよ、ストロング。

久しぶりの晩酌しゃくしゃくきゅうりミソ。しゃしゃるキューパーセント。しゃきょーでもしよかななんて。

 

最近は、お野菜めっちゃ食べててなんか偉い私。

ごはんつくって、飲んで、アテ用意して、飲んで…偉い。

偉いよ。

偉い。眠い。いね。いね? 

育ててた麦が台風でやられてショックモック。

“集団”と“文化”

久しぶりに、とても苦手な講師の人に会った。話を聞いた。一時間。

たった一時間、かもしれないが、尾を引く苦痛な一時間だった。

 

それで、思ったの。

私、学級経営に熱がある人、、、ってこういうカテゴライズして、どうこう言うのもどうかとは思うんだけども、

そういう人(ラベル貼ってすみません、なんて表現してよいか分からず)苦手なことが、たまにある。

話している相手の目を見れないほどに苦手なことが、ごく稀にある。

 

よい集団を、とか、

認めあえる集団を、とか、

高め合える集団を、とか、

苦手なんですよねぇ、結構、じつは。

 

同じように聞こえるかもしれないけど、

集団の中に認めあえる文化を、とか、

集団の中に高め合える文化を、とかになると、

平気やの。

平気、というか、文化の内容によっては積極的に思ったりもする。

 

なんやろなぁ、何が違うんやろなぁ、ということを、

必死につかまえてみる。今から。

 

えーーーと、多分。

まず、集団を育てようとか、こういう集団にしたいとか、その欲求が、

なんというか、言葉を選びたいんだけど選べなくて、

ごめんなさいですが、キモチワルイ。

っていう感覚をもってしまう。私は。

それは、こういう人間に育てたいという欲求同様に、とても教育的に感じられて、キモチワルイ。

もしかすると、それ以上に、したたか?に感じられて、キモチワルイ。

 

うん、じゃあなんであなた教育にたずさわってるの、あなたもそういう欲求あるんじゃないの、と私が私のこの文を見ている誰かだったら聞きたくなる。ツッコミたくなる。

だから、教育、するのもされるのも嫌いやねん。

それは一旦おいておいて。

 

そして、きっと、私は集団を個人の集合体としてしか見ていない。

何年何組って集団は、そこに集う人たちのただの集合だ。と思う。

もっと大きなところで言えば、例えば、女性、とか、日本人、とか、大人、とか。

それは、ある面で同じ特徴や属性を持った人のただの集まり。と思う。

そこにいる(と見られる、思っている)人全体のカラーをつけることに、一種の何とも言えない不自然さを感じる。のです。

(冒頭で私自身が、それをしておきながらなんですが、、、)

 

文化、となると、そのへんと、どのへんがどう違うのか、違う、と私は捉えているのか、、、

そのへんは、また次回。がんばってつかまえる。

 

ふーーー。

おやすみ。寝れるかな。寝たいな。

酔うほどに

頭がさえるとかなんとか。

いやいや。

眠いねーーー。

 

完全に酔に任せて大胆な一歩を踏み出すこともできず、

脳内パラダイスをただことばにしてみん。とてするなり。

 

眠いねーーーーーー。

おやすみ。

 

表現と表出

表現。表出。

他者を意識するかどうか。

出す、のか。現す、のか。

 

わたし、表出のほうが、好き。

ということに気づいたのは大学生のとき。

 

教育大学で教科教育法なんかを学んでいると、芸術系の先生って、

とても好きな先生と、大っきらいやわ授業出るだけで吐きそうやわって先生がいて、

その違いってなんやろなぁって考え込んでいて。

その頃に表現、表出って言葉(概念?)を知った。

 

知ったのは、表現派の先生が、

「表出じゃあかん、自己満じゃあかん、他者を意識しない表現はただの表出や、表現に非ず」

というようなことを言っていて。

すごくスッキリしたんですよね。

ああ、だから私、あなたたち嫌いやねんな、と。

 

私は、エゴがたっぷりのものが好き。

どう見えるか、どう伝わるか、そんなものは、

自分の中の奥の奥の奥のさらにその先を掴もうとしているときに、私はジャマ。

(「そんなもの」って、表現派のこだわりをもっている人、すみません)

 

そして、私は、あなたの、そんな奥の奥の奥の更にその先にであえたとき、触れられたとき、触れられたような気になるとき、

そんなときに、なんとも言えず、絶句し、自分と他者がいることを、いや、あることを、

なんだか感じることができる。

そんなときが、とても幸せ。と、私は感じる。

 

私は、エゴが、すき。

だから、そんな作品が、すき。

生々しいエゴが、すき。

それが毒々しくても、美しくても。

キレイにされて現されたエゴは、別にあなたのものじゃなくてもいいでしょ、って思っちゃう。

そんな感覚やねんな、きっと。

 

表現を求められると、

別に私のものじゃなくてもいいでしょ、って思っちゃう。

表現を求めることを求められると、

そんなこと絶対したくないわ、って思っちゃう。

 

私自身がどうしようもないエゴのかたまりなんやろうな、きっと。

 

一方で、私、とか、あなた、とか、彼、とかを

超えた先の存在にもたまらなく惹かれたりするんですけどね。

そういったものが、表現の先に、もしかして、ひょっとすると、あるのかもしれない、と思ったりもする。

 

だけど、表すということは、この世に存在させるということは、

媒体である私やあなたや彼なしにはあり得ないのでは、とも思ったりもする。

 

どうなんだろうね。なんなんだろうね。