言の葉ブログ

思考と内省のための、表現でなく表出のためのブログです。

超自我

子どもに対する信頼と尊敬。
感情を受け止める。(受け入れてくれる存在だと相手が実感できるかたちで)
意識、無意識。超自我超自我を再形成する。

生への愛と死への愛。死への愛は人間にはじめから備わっているものなのか、超自我との葛藤の結果、表れてくるものなのか。
フロイトとニイルの子ども観、というか、人間観でもあるとおもうんだけど、その違い。

わからない、子どもが、人間がどういった存在なのか、今でも勉強しても正解は分からないけど、
やっぱり私はニイル側の立場に立ちたいし、
外界からの(ときに道徳的な、ときに威圧的な)働きかけによる超自我やその本能との葛藤ゆえの問題行為として現れてくる(という見方にたって)そのことには、
叱責、褒美によるこちらが正しいと思う方向への修正、説得、道徳の代理人としての関わり、善悪を教える、禁止、強制ではなくて、
抱きしめて、能動的に聴いて、受け止めて、本能を信頼して、外なる規範を薄めて、
超自我を、子ども自身が、自身を含めた共同体の中で再形成していく、
という見方で、感性で、子どもと関わっていきたい。
そのほうが、[よい]と、今の私は思っている。

[感情面の自由]とは、なんだろう。

道徳を教えられる、善悪を教えられると思っている人には、あなたはなんぼのもんじゃい、とやっぱり思ってしまう。
何ていうか、子どもを人としてバカにしている、下に見ているように感じて、腹立たしい。
善悪なんてものは、自分自身で思うしかない。と、思う。
自分自身で思うとは、決して独り善がりということではない。
自分自身で思う善悪は、倫理。

外なる規範は、道徳。時代や社会によってつくられる。…のか?

自分自身の内なる善悪に対して自分が自信がないから、あるいは考えないから、外なる道徳や規範によって教育するのではないかとすら思う。
ひょっとしたら、子どもだけでなく、自分を含めて人間というものを低く見ている、のかも。
私は、その見方は、いやだなぁ。


教育学も、哲学も、心理学も、学問としては色々な人がいて、違うことを言っている。
だけど、だからといってそれを学ぶことが無意味なのではなく、
その違いや重なりから、自分の感性や考えを磨いていく手立てになる。
違うポイントは、自分の考えを深めていくポイントにもなる。
磨いていくと、やっぱり在り方接し方声のかけ方全てに通じてくる。と思う。


心理学、苦手意識があったけど、勉強したいなぁ。
哲学以上に、苦手な論を言っている人への拒否感が、、、。
だけども、そこも泳いでみたいなぁ。拒否する感覚の尻尾を掴んでみたい。